曹洞宗 月光山天徳寺
■ 宇都宮鎮房公425回忌法要

    平成25年(2013)8月18日 宇都宮鎮房公追善供養会
         宇都宮家末裔の方々をはじめ、
        多数の方々に御参拝いただきました。 

         
法要の様子が動画でご覧いただけます。
        
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 城井谷 野いばら伝説 (野イバラの呪い)

        《 福沢諭吉の証言、三百年の呪詛 

   明治時代の著名な史伝家福本日南は、その著書「黒田如水」のなかで、
   福沢諭吉談として、次のように書いている。
         
         (原文)
       故人福沢諭吉翁は中津の人なり。在世の日嘗て語りて日く、
       宇都宮氏世々城井谷に冶し、深く地方の民心を得たりし歟、
       鎮房父子が黒田氏の詭計に陥れられて、一朝身家を亡ふや、
       地方の遺民黒田氏を怨みて、痛骨に入り、年々鎮房父子の祥忌に曾する毎に、
       老若男女悉く古城の墟に聚りて、其怨魂を弔し、手に手に野薔薇の花の一枝を折り来りて、
       之を地上に挿し、異口同音に讎家の短祚を咒ひたり。
       其聲悽愴、鬼気人に逼り、看る者聴く者も戦栗せざるは無かりき。
       斯くの如きもの二百餘年、未だ嘗て一年も中絶せしことあらずと云。

         ( 訳 )
    なくなられた福沢諭吉翁は中津の出身であるが、生前、このように語られたことがあった。
    宇都宮氏は、歴代、城井谷を治めて、深くその地方の民心を得ていたのであろうか。鎮房親子が黒田氏
    の詭計に陥れられて、宇都宮氏が滅亡したのち、城井谷の住民たちは心から悲しみ、黒田氏を深く怨ん
    だ。
    毎年、鎮房父子の命日には、老若男女すべてが宇都宮氏の古城跡に集まり、鎮房父子の怨魂を悼んで
    手に手に野イバラの花をもち、これを地に挿し、異口同音に黒田家を断絶せんと呪った。その声は悽槍と
    して、鬼気人に迫り、看るものも聞くものも、思わず戦慄せざるを得ない光景である。
    この風習が二百年あまりも続いて、かつて一度も中断されたこたがないと言う。


       
<野イバラの呪いとは、天徳寺の法会か?>

    これは、天徳寺で行われていた供養の法会が、このような形で外部に伝わったのではないか。
   宇都宮(城井)鎮房の命日である四月二十日に、家臣子孫を名乗る家では、法事が行われていたことは
   確実であって、当然ながら、宇都宮(城井)氏の菩提寺では、多数が参会して行われていた。
    天徳寺は城井氏の本庄城(本庄若山城)跡に建立されており、日南のいう「古城の墟に聚りて」とは「城
   跡に建立された天徳寺に集まって」と、読み替えることができる。村人たちが不気味にひび割れた墓石に
   ぬかずく光景は、たとえ「讎家の短祚」を口にしなくとも、相当、悽惨に見えたのではないか。

                                             則松弘明氏 著書「呪詛の時空」 より  

 宇都宮朝房の最後

    鎮房殺害時、朝房は出陣中であった。
    鎮房殺害、城井落城の報は直ちに肥後に伝えられ、領主加藤清正は、その夜、家臣に 朝房を木葉に
    急襲させ、宿館を囲み火を放って攻め殺した。時は天正17年4月24日 鎮房殺害後 僅か4日である。
    如何に周到、迅速に事が運ばれたかが推測できる。

    朝房は死に臨み目をいからせて 取り囲んだ敵兵に向かい、
     「我が運尽き 事窮りここに至っては万事休す。今ここに死ぬのは無念であるが、他日幽冥の中(うち)
         必ず怨みを晴らすと清正に伝えよ。」  と云い終わって烈熖の中に入り自ら耐えて死んだ。

    清正は朝房の最後の模様を伝え聞いてから、快々として楽しまず耳鳴りが続いてノイローゼの様になっ
    てしまった。又 何事もない平穏な時に予期せぬ災害や不穏なことが起こり、人々は皆 これは朝房の
    祟りであると云った。そこで神仏に祈願し何とか祟りを除こうとして見たが、効きめは無かった。
    遂に清正は慶長元年8月、朝房の霊を崇めて明神の号を贈り、宇都宮隆房を祀った宇都宮神社に合祀
    した。
     其の心が通じたのか、神の怒りも漸く静まり国の災害も自ら収まったと云う。
                                                 ー木葉宇都宮神社縁起よりー

     
 豊前宇都宮氏 
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